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忠彦の名にこめられた平和の願い

日出生台の海兵隊演習を、福島
社民党党首に説明する広次氏
忠彦のこと (母 静子)
 ひろつぐ忠彦は、1956年(昭和31年)耶馬溪町下郷の農家の三男として生まれました。上の兄2人が農業を手伝うなか、幼い忠彦の仕事は、掃除や洗濯など、家事を手伝うことでした。
 「骨身を惜しまず世話をする人」
 ──こんな正確も、幼いころの生活の中から自然に身についたものでしょうか。
 「忠彦」の名は、母の弟「忠夫」にちなんでつけられたものです。この叔父は、フィリピンに向かう途中で撃沈され、19歳で帰らぬ人となりました。母からこの話を聞いたことが、その後の平和運動の原点になっています。
借金までして大学にやった子が「共産党に入った」と聞いたときは、本当にショックでした。父さんと一緒に嘆くやら、怒るやら。戦前の教育を受けたものとしては、共産党に良いイメージがなかったからです。
 それでも息子かわいさで選挙の応援に行くと、運動員の人はみんな手弁当で熱心に頑張っています。
 「お金」と「飲ませ喰わせ」の選挙しか知らなかった私たちは感心しました。
 汚い政治にそまらず、元気で人様のお役に立ってくれれば、いうことはありません。
学生生活で環境問題を学ぶ 業者と苦しみを一つにして

産廃処分場の調査
 「上のふたりを高校にやるときが一番苦しかった。しかし忠彦が望むなら、借金をしてでも大学を出してやりたい」
 これが当時の両親の思いでした。
 大分大学教育学部で生物学を学ぶ中、環境問題の大切さを実感しました。また学生自治会運動を通じて多くの仲間に恵まれ、次第に活動の分野を広げていきました。
 「平和と環境を守る活動を生涯の仕事に」
 その思いと重なったのが、日本共産党との出会いでした。
 卒業後、教員の道は選ばず、大分民主商工会の事務局に就職。中小企業の営業を守る運動に参加しました。きびしい現実の社会の中で、業者の苦しみを知れば知るほど、大企業中心の政治への怒りと、「国民が主人公」の政治を実現することの大切さを強く感じました。
 2年半後、民主青年同盟の大分の役員に、さらに東京の本部で活動。どの国とも対等に話し合う日本共産党の自主独立の立場に、核心を深めました。
市議として4期目がスタート 私たちも応援しています
 「ひろつぐさんの産業廃棄物の問題での質問は、よく調査をしてあり、具体的な指摘をして、迫力があった」
 昨年の12月議会を傍聴した人の感想です。
 この間、みなさんと一緒に、暮らしや環境、平和を守るために努力してきました。
 今、合併した新大分市の、平和で安心安全な町づくりのために全力をあげています。
 自然と環境保護によせる私たちの願いを、議会に誠実に届け、いかなるタブーをものともせず、不正と腐敗にたちむかう正義の人。
(緑が丘 岡本 彬さん)

 「敬老無料パス」実現に、一緒に努力をしていただきました。ワンコインバスの存続など、高齢者福祉の充実に、なくてはならない人です。
(稙田 高橋弘隆)
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